はぐルッポ通信(第133号)を発行しました。(不登校・不登校傾向、登校拒否などの状態にある子どもたちへの居場所提供、相談支援)



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「はぐルッポ」のスタッフ会議では、一人ひとりの子どもについての情報交換に、多くの時間を充てる。
ある時、A君が話題になった。「孤立してたA君が、最近は、みんなと一緒にゲームしてます」と一人が言うと、「来た時も、いい挨拶をしてくれるようになった」「いつも開けっ放しだったのに、最近は、ちゃんと戸をしめるようになった」「表情が明るくなった」なと゛、次々と最近のA君について発言がある。
彼は、来た当時は一人ぼっちで、仲間から疎んじられるようなこともしばしばあった子だ。
こういう時、みんなは、嬉しい。A君の変わりようが嬉しい。そして、A君によって、「はぐルッポ」の存在を少し認めてもらったような気もして、嬉しい。コーヒーもうまい。
あるスタッフ会議で、B先生が、「私は教員の時、保護者との連絡ノートに、『必要以外のこと』ばかり書いていま
した」と言って、自分は、この言葉がとてもいいと思った。
教員は、保護者に対してさえも、助言や依頼、注意や指導(時には命令)等々、とかく、「必要なこと」ばかりを言いたがる人種だ。だがそのような「ためにする」何かではなく、何も求めないフラットで率直なコミュニケーションの言葉。こういう自然な形での心の交流が゛、保護者との信頼関係を作り上げていく。
言うまでもなく、このような関係性は、子どもと教員との関係においてこそ、最も求められるものだ。
「あいさつをちゃんとやれ」などと言わなくても、「昨日の夕焼け、きれいだったね」「ほんと。僕もずっと見てました」というような関係性が成り立っていれば、自然と、あいさつは「本当の」あいさつになる。
連絡帳についての発言を聞きながら、自分は、先生が、闊達自在、時に奔放でさえありながら、子どもたちから信頼を得ている理由がわかったような気がした。
思えば、「はぐルッポ」のスタッフは、それぞれかなり個性的でありながら、共通してこのような関係性の中で子どもと関わっている。もし、ここのスタッフであることの資格を一つ挙げろと言われれば、それは、(自戒をこめて)この一点にあると思われる。この点で、「はぐルッポ」は、「世間離れした」、かなり異色な、したがってかなり稀有な集団である。そのことの素晴らしさを、改めて思わされたB先生の一言だった。
C先生は、教員宛に『なんだか うれしい』という通信を出している。
自分は、この「なんだか うれしい」という言葉が表している、子どもと先生との距離感が好きだ。この言葉の伝える、子どもと先生との関係性を、とてもいいと思う。
ここには、教員の子どもに対する、 「圧」が、まったくない。「権力勾配」が、微塵もない。
通信には、誰かの指導によってではなく、自分で考え自分で行動する子どもたちを遠くから見ながら、「いいなあ、うれしいなあ」と心奪われている先生の感動が、いつも喜びに満ちて綴られている。
ここには、子どもたちを見守ることに徹するという、ゆるぎない先生の意志があり、大人の求める教育から子どもを解放し、彼らに、「大人の考える子どもの時間」ではなく、「子どもたちの心から湧きでる、子どもの時間」を、いっぱい保障したいという先生の願いがある。
この時、子どもたちは、「教える」対象ではなく、自ら主体的に「育つ」存在だ。 藤田省三の言う、キュリオシティーという他者との関係性である。
キュリオシティー—-つまり無償性と自分と違うものに対する愛情、自分と違うものの独立性を深く承認して、そのうえで、そのものについて知りたいという感覚 (「現代日本の精神」(『世界』90.2)
大人は、自らの賢しらを捨てて、子どもたちの思うままにさせればいいのだと、『なんだか うれしい』を読む度に思わされて、自分の心は温かくなる。
教育は、本当に、「よく」なっているのだろうか。
子どもの数は減っているのに、不登校は増え、いじめは増え、自殺も増えている。そして、至る所に、塾、塾、塾だ。これら
をどのように考えたらいいのだろう。
「はぐルッポ」の子どもたちを見ていて感じることは、不登校という彼らの表現が、現在の教育に対する「異議申し立て」である場合が非常に多いということだ。
このことは、日本財団の調査を援用するまでもなく、不登校ではない子どもたちも、多くの鬱積するものを抱えながら、我慢して登校しているという想像を、容易にさせる。
そして、特別問題を感じることもなく「普通に」登校している子どもたちこそ、実は大きな問題を抱えているのではないかということもまた、容易に想像させる。
工藤勇一先生は、子どもたちは、《大人が期待することを忖度し自ら進んで行う「自主的な子ども」》になっていると、指摘していたし、明橋大二先生も、「問題なく」育った子どもこそ、後が心配だと言っていた。
教育の過剰こそが、問題だと、自分は思う。
過剰の一つは、日本の教育が長い間にわたって培ってきた「学校文化」(例えば、「細部まで決められた校則」「厳し
い時間管理」「みんな一緒という同調圧力」「大きな声のあいさつ」等々)である。それらは、子どもたちに適応を強制し同調圧力となって、長い時間の中で子どもたちを感覚的なところから変えていく。
そして、次々と打ち出される「教育改革」である。 「改革」は、その度に看板を塗り替えながら手を変え品を変えて、「期待される人間像」(どのような人間になるかは、人権の最も基本、子どもたち自身が決めることであるのに)を子どもたちに強制してきた。それは、「個性」「多様性」の尊重を謳いながら、それとは真逆に、子どもたちへの「圧」を強め、生きにくさを昂じさせている。
自分には、そう思えてならない。
もう、「子どもがどまんなか」「誰一人とり残されない」「個別最適な学び」等々、そんな、子どもにおもねり、できもしない空々しい美辞を並べたてて教育を語ることは、やめにしたよう(こういう言葉を使う人たちは、不登校の子どもやその保護者が、どんな思いでこれらの言葉を聞いているか、想像したことがあるのだろうか。)
「探求、探求」「とことん、とことん」などと、日本中の子どもたちを急き立て追い詰めていくようなことも、もう、やめにしよう(学ぶことが楽しければ、子どもたちは、言われなくても自ずと探求する。ベクトルが逆だ。「やらせ」の探求は、子どもたちを息苦しくさせるだけだ。)
教育に惹句はいらない。
語るなら、もっと、大らかな、普通の言葉で、教育を語りたい。
教育の過剰から、子どもたちを解放しよう。
「うんと遊ばせたいですね」とC先生は言うが、そういう、腹の座った教育を求めたい。
かつて読んだ、ポーラ・フォックスの『十一歳の誕生日』を思い出す。
小説の旧題は『片目の猫』。主人公ネッドは、誕生日のお祝いにおじさんから銃をもらう。父親は「あぶない、もう二、三年してもまだ射撃を習いたいと気持ちがあったら、その時に使え」と、屋根裏部屋にしまってしまう。その銃を、ネッドはこっそり持ち出して、何か動くものを撃つ。その後、庭を走る片目の猫を見つけ、その猫は自分が撃ったことによって片目になったのではないかと思い悩む。
こうして、ネッドと片目の猫とが軸となって物語は展開していくのだが、この小説の世界は、複雑に錯綜しながら、あまりにも豊かだ。もし、子どもの必読書を一冊だけ挙げろと言われれば、躊躇なく自分はこの小説を挙げるだろう。
その豊かさのなかの一点。
ネッドが、牧師である父親に、聖なるブドウ酒を入れる小さなグラスを盗んだこと(ネッドは、その聖杯をポケットに忍ばせて持ち帰り、それで水を飲むのが気に入っていた)を、打ち明けるところがある。
その時、父は、そのことは知っていたと言う。ネッドが「なぜその時何も言わなかったのか」聞くと、「うーん、もう一度やったら、言ったかもしれない」と答える。父は、過ちを犯したネッドが、その過ちを直視して、それを正していく者として、自力で、立ち直ることを信じて待っていたのだ。
物語は、ネッドがいくつもの体験を重ねながら、そのいずれもが、聖杯の場合と同じような経過をたどって、ネッドの成長を促していく様子を描いているが、その成長は、さっきの父親の場合のように、周りの人間たちが、ネッドを「信じ」て「見守る」、「信じ」て「待つ」ことによって、果たされている。
作者は、このような少年時代を過ごすことができたことによって、ネッドは「幸せ」だったと、言う。
『十一歳の誕生日』 を書きはじめたとき、わたしは、自分のこども時代の、幸せだったひとときのことを、思いだしていました。その幸せがどんなものだったかを考えてゆくうちに、わたしは、人間が、罪の意識をもたない状態から、それをはっきり持ってしまう状態へとうつってゆくようすに注目するようになりました。そして、一見さかさまのようですが、幸せは、なにも感じない状態よりも、罪を感じて、それをうけとめてつぐなおうとする気持ちにむすびついているのが、わかってきました。
自分のなかの罪を自覚し、それを償う者として自分の生を引き受けていくことが幸せにつながるという、フォックスの「幸せ」観は、深い。ネッドの少年時代は、人として最も根源的で、最も大切な生き方に目覚めていく時間だったという、その一点において、限りなく「幸せ」だったのだ。
そして、繰り返しになるが、そのような「幸せ」は、周りの人たちの、ネッドを信じて、待つことよってこそ、可能だったのである。
このように、大人たちが、自分の世界観や人生観を子どもにおしつけるのではなく、子どもが自ら感じ考え行動することによってこそ、子どもたちは、生きる上での大切なものを、獲得していくのだ。それは、大人によって注入されたつけ刃の偽物とは違って、子どもたちの心の底にあって、力強く確かに持続する「芯」だ。
「はぐルッポ」に来る子どもの中には、A君のような子ばかりでなく、苦しい環境の中に置かれている子どももいて、その子たちについて語り合う時間は、重苦しい。時には、どうしようもない無力感にとらわれてしまうこともある。
だが、「はぐルッポ」もまた、『十一歳の誕生日』の世界のように、子どもたちの心の葛藤に思いを寄せながら、「信じて待つ」、子どもたちにとって「幸せ」な「時間」であり「空間」でありたいと、思う。
子どもたちが、それぞれのネッドであることを保障する「居場所」で、あり続けたいと、思う。
はぐルッポ 斉藤金司
